知立の歴史ぶらり探訪・翁のいざない

第5話(後編) 赤穂浪士こぼれ話 

 ♪勅使下向の春弥生 いかに果たさん 勤めなん 身は饗応の大役ぞ♪といえば、真山一郎の名唱で知られる『刃傷松の廊下』。事件が起きたのは、元禄14年3月14日、巳の刻(1701年4月21日、午前10時頃)。浅野内匠頭の刃傷を知った浅野大学(内匠頭の実弟)は、急使として早水藤左衛門と萱野三平を赤穂へ派遣。昼夜を問わぬ急ぎ旅でも4日半掛かったという。その後、急使として次々と赤穂へ向かう武士や飛脚たちを、池鯉鮒宿の人々は、どんな思いで眺めたのでしょうか?
 赤穂四十七士の吉良邸討ち入り後、赤穂藩は改易され、身寄りを頼って当地へ赴いていたのが吉田忠左エ門の妻りん。泉蔵寺で得度をして夫の菩提を弔っていたのです。
 それにしても泉蔵寺という寺号には因縁を感じます。四十七士が埋葬されているのが泉岳寺、歌舞伎の演目が『忠臣蔵』というのですから。

(坂之上九門)

【吉田忠左エ門夫妻之墓所内にある顕彰碑】

(知立くらしのニュース 2012.1.21 掲載)

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